「しあわせ」という抽象的な概念を、人間の行動データから実像としてあぶり出すなど、ユニークな研究で知られている日立製作所研究開発グループ技師長、工学博士の矢野和男さん。博士に聞きたかったテーマのひとつが「AI、ロボットが進化した社会、人はしあわせと感じられるのか」。未来はAIやロボットが仕事を代行してくれるので「暇になる」と思いきや、考えている以上に忙しい世界がやってくる、と博士は語る。(Future Society 22)
矢野 和男(やの かずお)
株式会社日立製作所 理事 研究開発グループ技師長
1984年日立製作所入社。2003年頃からビッグデータの収集・活用技術で世界を牽引。論文被引用2,500件、特許出願350件。AIからナノテクまで専門性の広さと深さで知られる。現在、研究開発グループ技師長。著書『データの見えざる手』は2014年のビジネス書ベスト10(Bookvinegar)に選ばれる。工学博士。IEEE フェロー。
「死なない人」がいる世界
――ここ数年、AI、ロボットの進化が盛んに取りあげられています。「2045年にはAIが人間の知性を超える」との説もあります。AIが進化した社会で私たちはどんな生活をしているのでしょうか。果たして、豊かな社会でしあわせな生活をおくっているのでしょうか。Future Society 22の興味のひとつがここにあります。
矢野さんは人間の「しあわせ」を定義し、定量的に捉え人間の行動データとの関連性を読み解く研究をされています。その研究成果の一部は、著書の『データの見えざる手』(http://amzn.to/2jTLRYp 草思社)などで発表されています。そんな矢野さんと、今日は「しあわせ」と「未来の社会」についてお話できればと思っています。
矢野:ちょうど先日、ある方の結婚式の2次会で「TED TALK」ならぬ「WED TALK」をやってきました。そのテーマが「2100年の社会はどうなるか」。だから2045年どころか、2100年までお話できます(笑)。
――2次会で(笑)。どんなお話をされたんですか?
矢野:2100年って皆さん自分には関係ない世界、自分はこの目で見ることができない世界だと思っているでしょう?
でも、人間の平均寿命って毎年0.2 ~0.3歳ずつ延びているんです。今後、遺伝子工学やナノテクノロジーが進化し、ビックデータの解析結果も利用できる状況を考えると、医療技術はさらに洗練されていくでしょう。となれば0.2~0.3歳に留まらず、その倍、0.6歳ぐらいには増えてもおかしくない。平均で0.6歳なんだから毎年「1歳近く延びている」人もいるということです。1歳近くまで延びるということは…、つまり「死なない人がいる」ということになります。いまは極端な話だと思うかもしれませんが、「この会場にいる人たちの中にも2100年まで生きる人がいる。それが不思議じゃない世界がやってきます」と。そんな話をしました。
活動し続けるために必要な「原資」は、おカネと精神的満足度
――おめでたい席で “長寿”の話題。縁起がいいですね(笑)。矢野さんはすでに「毎年0.6歳以上に延びる」との実感をお持ちですか?「死なない人」がいる世界になるとなんだか、いろんなことが変わりそうです。
矢野:はい。不老不死はともかく、長寿化は進むでしょう。少なくとも、これまで築き上げてきた「生死観」「人生観」は崩れるでしょう。「子供の頃に勉強して、成人になり社会活動に参加して、特定の年齢を迎えたら隠居する」といった現代のモデルが成り立たない。ではどうなるか。
それに代わり、「死ぬまで社会活動に参加する」「死ぬまで学び続ける」のが当たり前の社会になるでしょう。「隠居」とか「引退」って、最後には落ち着くこと、安定した状態に辿り着くことを「良し」としてきた価値観から生まれた言葉です。でも、死ぬまで現役の時代では「安定」や「定常的な状況」よりも、「常に変化する」「変化し続ける」ことに価値を置く世の中になっていくでしょうね
――「常に変化し続ける」「常に勉強する」世界の経済活動ってどうなっているんでしょうか。おカネを稼ぐということへの意識はどうなるのか、おカネ以外の目的で働くようになるのか。人々の働き方も大きく変わりそうですよね。
矢野:「限界費用ゼロ社会」に向けてフリーコストでできることは増えていると思います。でも、「タダでも賄えることが増えるんだから、働かなくていいのか」といえば、そうは思いません。人間が死ぬまで変化し続けるためにも「原資」は必要です。
経済的な原資である「プロフィット」がその意味では大事です。プロフィットとは「地球・自然からの搾取」を除けば、われわれの唯一の原資であり、次の活動をするためにも不可欠のものです。個人はもちろん、民間企業、社会活動でも「プロフィット」を出すことは求められます。しかし、これと同じぐらい大事なものが精神的な原資です。
「しあわせ」を感じている組織は新しいことに挑戦する
――精神的な原資とは?
矢野:人間って、ラクなことをしていれば、満足かといえばそうとも言えないんです。昨年、2万8000人を対象にした大規模実験の結果が、科学誌「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌で発表されました。それによると、主観的な「ムード」の良し悪しが、その後の行動の変化に結びついていることが定量的に分かってきました。
「よいムード」、これは「しあわせ」と言い換えることもできるわけですが、そういうものを感じている人たちは、その後数時間内に「楽しくなくても大事なこと」を行うことが増える傾向があります。一方、「ムードが悪い」と感じていた人たちは、その後も「簡単だけど、本当は大事でないこと」をしている人が多いということなんです。
――つまり、「しあわせ」が、新しいことに挑戦するため原資だと?
矢野:ええ。「ある程度自由度がある時間帯で、経済原資と精神原資を投下して挑戦している状態」がハッピー、しあわせなのです。そのおかげで成果も出るのです。
実際、日立の営業担当者たちの成績もそうなんですよ。「しあわせ」を感じている人の生産性の方が、「そう感じてない」人たちよりも3割も高いんです。しあわせと感じられるからこそ行動する。その結果、成果も出るので、またしあわせと感じる――という循環の中にいるんです。
――企業経営でも、もっと「精神的な原資」的な視点を重視すべきだと私も思います。会社の健康状態を示すといわれている「有価証券報告書」は、すでにある仕組みでの成長力は分かります。でも未来に向けての成長力って分からないんです。
「しあわせ」の総和が高くないところでは、無から有、0から1を生み出すのは難しい。となれば、会社が新しい成長を生み出す力があるのかどうかも「しあわせ」の総量から推し測れますよね? これがあれば投資判断にも役立ちそうです。
矢野:働く人たちの身体運動は加速度センサーを装着すれば測定できます。この組織の活性度、しあわせと感じるレベルなどを「ハピネス」という指標で定量的に捉えることで、その企業のハピネスが測れます。その数値と企業のパフォーマンスを照らし合わせたらと面白い結果がでるでしょうね。実は、このテーマで、今年にでも仲間を募って新たな動きをはじめたいと思っています。
AIとは人が未知への可能性を試す「実験場」。人間は暇にはならない。
――未来の話、「常に学び続ける社会」に戻って、もう少しお話をしたいのですが。今後、「仕事の多くがAIやロボットに代行できるようになっていく」とは思うんです。興味があるのは、「そんな世界で状況になった時、人間は何をしているのか」ということです。たとえば、スマホができたことで、モノを考えなくなったなぁと感じる時があるんですが、AIが進化したらますます人間はものを考えなくなりそうですよね。
矢野:AI・ロボットなどが代行してくれる作業はある程度増えるでしょう。でも、それで人間が考えることがまったくなくなるとか、暇で一日中ボーっとしている世界がやってくるとは思いません。人間の思考は、身体運動と分かちがたく結びついています。その意味で、人間のような身体を持たないAIが人間を全人格的に置き換えることはないでしょう。
私は、AIに対しては極端なイメージ、歪んだ議論が先行していると感じています。AIは人間が作るもので、どんなにAIが高度になっても、それを作った人間はAIより高度です。これに対して、AIがAIを作るようになったら人間を超えるのでは、という質問を受けます。その場合も、AIがAIを作る技術を考えるのはやはり人間です。どこまでいっても、人間の手のひらで動いていることに変わりありません。その分、人間には責任があります。暴走したり、社会を圧迫するものではなく、われわれ人間にとって未知のリスクや可能性に向き合う方法としてAIを捉える方がいいんです。
人間の仕事をコンピューターに代行させることができたのは、コンピューターが登場する以前に「科学的管理法」が確立していたからです。科学的管理法とは作業を分解し、標準化し、効率的に組み替えるというプロセス。このプロセスの一部をプログラミングできるぐらいマニュアル化できたことから、OA(オフィスオートメーション)、FA(ファクトリーオートメーション)が始まったのです。コンピューターは「繰り返し」とか「大量に同じことをする」ことが得意なので、そうした作業を任せてきたわけです。
しかし、世の中が成熟化し、大量生産、時間の短縮化だけでは生産者にも消費者にも喜ばれなくなりました。「同じ作業の繰り返し」を効率的にこなすだけでは価値が生まれなくなってきたのです。
そして今後、「変化することが常態化している」世の中になると、ルーティンの作業ばかりではなく、新しく変化や不確実性に挑戦する場面が増えます。常に、新しいやり方を見つけることが必要です。そこに新たな方法論が必要です。それを支えるのがAIです。
―― なるほど。
矢野: 1980年代、90年代に「エキスパートシステム」の研究が流行りました。現実の中にあるルールを書き下し、これを組み合わせて、現実の判断に使おうというものです。しかし、これはうまくいきませんでした。このため「人工知能は使えない」と思われました。実際、ルールには、うまくいく条件がありますが、これを書ききれないですし、組み合わせるとますます条件が複雑になって使えなくなってしまいます。実は、これは人工知能の問題ではなく「複雑な判断にルールを適用するのには限界がある」ことを示していたと私は考えています。今でも、複雑な社会を無理やりルールで統治しようとする人が多いわけですが、ルールの限界を知り、このアプローチ自体を見直す必要があるのです。
あれから30年余り。データが蓄積され、計算能力が進化したことで、新しいアプローチの可能性が見えてきました。杓子定規なルールに一律に頼るのでなく、状況に合わせ、データを活用し、判断基準を柔軟に変えるやり方です。また、判断力を高めるために、実験とデータから学習するアプローチです。しかし、顧客や責任を伴うビジネスで、実験の機会は限られますね。だからこそ、実験の大部分をコンピュータ上で行う実験場が必要なのであり、これがAIの本当の意義です。
AIが人の労働を置き換えるというのは間違っています。AIが本当に置き換えるのは、ルールとそれにお墨付きを与えている権威なのですから。
――こうした使い方は経営でも使えそうです。ゲーム理論を使って、人間集団がどんな振る舞いをするのか、といった複雑な現象を解析する研究もされています。
矢野:そう。経営や経済活動では自然現象のような一定のルールや法則が確立されていません。例えば、世界中の「富」が偏在すること、なぜ格差が急速に広がっているかといった問題がありますが、本当のメカニズムはわかっていません。
しかし、データやAIを使えば、より深く現象を定量的に理解することができます。今後、このような新しいアプローチによって格差を自然現象や物理現象のように説明できる可能性があります。そうすれば、格差は政治問題ではなく、自然現象の制御の問題になります。現実的な問題解決に集中できます。
―― まったく違う世界なのに相似形になっている現象にも興味があります。例えば、「細胞と脳」の話。「脳はすべての細胞に指示を出しているわけではない。遺伝子情報を背負った細胞が、周囲の環境だけで変化していること」が分かってきましたよね。これって、経営とまったく違う話なのに組織運営とかを考える時のヒントになります。
矢野:ええ。生物と人工知能との関係は面白いんです。1940年代に人工知能の研究が始まっていますが、当時から、人類とその知能を生み出した原理として進化に学ぶ、という考え方があるわけです。
ダーウィンがいっているように、進化というのは、進歩ではなく多様性を生み出すメカニズムであることが重要です。これまでのマシンやコンピュータは、ユーザーや使い方を一律に制約し、多様な人間の方がマシンに合わせる必要がありました。
しかし、人工知能によるシステムは、多様な強みを持った人にむしろ合わせてくれて、いまある場所で花を咲かせてくれるものです。ここで大きな転換が起きていることを認識すべきだと思います。進化には、まだまだ学ぶべきものがあると思います。
人工知能は多様な人々に、一律の「しあわせ」を押し付けるのではなく、人によって「しあわせ」と感じることが一人ひとり違うことを尊重します。このような人の新しい可能性を発見するのにも役に立つのがAI。決して人間に敵対するものではないんですよ。
※このブログは「Future Society 22」によって運営されています。「Future Society 22」は、デジタル化の先にある「来るべき未来社会」を考えるイニシアチブです。詳細は以下をご確認ください。
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